「おい、翔。書類選考が通った彼女達の履歴書だ。ここから最終面接をする人物を選ぶんだろう?」
此処は日本でも10本の指に入る、東京港区にある大手企業『鳴海グループ総合商社』本社の社長室である。
「ああ……。そうか、ありがとう琢磨。悪いな。嫌な仕事を頼んでしまって」
前面大きなガラス張りの広々とした部屋に大きなデスク。そこに書類の山と格闘していた鳴海翔(26歳)が顔を上げた。
「お前なあ…。本当に悪いと思っているならこんな真似よせよ。選ばれた女性が気の毒じゃないか」
九条琢磨は溜息をつきながら鳴海翔に言った
彼は翔の高校時代からの腐れ縁で、今は有能な秘書として必要な存在となっている。「仕方無いんだよ……。早く誰か結婚相手を見つけないと祖父が勝手にお見合い相手を連れて来るって言うんだからな。大体俺には愛する女性がいるのに……。」
「まさに禁断の恋だもんな? お前と明日香ちゃんは。普通に考えれば絶対に許されない恋仲だ」
琢磨はからかうような口ぶりで言う。
「おい、琢磨! 誤解を招くような言い方をするなっ! 確かに俺達は兄妹の関係だが血の繋がりは一切無いんだからなっ!?」
翔は机をバシンと叩きながら抗議する。
「いや、分かってるって。そんな事くらい。だけど世間じゃ何と言うかな? いくら血の繋がりが無くたって、義理の兄妹が恋仲ですなんて知れたら、ゴシップ記者に追われて会社ごと足元を掬われるかもしれないぞ?」
「ああ、そうだ。祖父も俺と明日香の関係に薄々気付いている。だから俺に見合いをするように迫ってきているんだ。考えても見ろよ。俺はまだ26だぞ? 結婚するには早すぎると思わないか?」
「ふ~ん。だけど明日香ちゃんとは結婚したいくせに……」
翔は苦虫を潰したような顔になる。
「祖父も大分年だ……。それに長年癌も患っている。早くても後数年で引退するはずなんだ。その時が来たら誰にも文句は言わせない。俺は明日香と正式に結婚するよ」
「そしてカモフラージュで結婚した女性を、あっさり捨てる気だろう?」
琢磨は何処か憐憫を湛えた目でデスクの上に乗っている履歴書に目を落した。
「おい、人聞きの悪い事を言う。言っておくが、結婚を決めた女性には事実をきちんと説明する。それに自分の人生を数年とは言え犠牲にして貰う訳だから、それなりに手当だって払うし、離婚する際はまとまった金額だって提示する。だからお前に頼んだんだろう。地味な女で、あと腐れも無さそうで……尚且つ金に困っていそうな女を選んでくれって」
「それで結婚した女性には1人でマンションに住んで貰って、あたかもお前と夫婦だと思わせる為に必要な時だけ利用するんだろう? そしてお前はその下の階のマンションに明日香ちゃんと2人で愛の巣に住む……。いや、それだけじゃないな。明日香ちゃんが子供を産んだ際は偽装結婚の女性の子供として育てさせるなんて!」
最後の方は翔を睨み付けるような顔で琢磨は文句を言った。
「それについては俺も人間として最低な事をしようとしてると思ってるよ」
翔は視線を逸らせた。
「いーや、それだけじゃ無いぞ! 大体なあ……お前は明日香ちゃんと新婚気分を味わえるかもしれないが相手の女性はどうなんだ? 一応偽装とは言え結婚なんだから、浮気……いや、これは浮気とは言えないな。恋愛の1つもさせない訳だろう? 20代の若さでな! お前の為に貴重な20代の若者の生活を奪うって事なんだからな!?」
琢磨は翔を指さした。
「だ、だから……恋愛にはまるきり興味が無さそうな…地味な女性を選んでくれとお前に頼んだんだろう?」
翔は美しい顔を歪めた。
「ああ、そうだよ。だから俺は選んだ。彼女達をな! お前と離婚した後は幸せになって欲しいと思える女性達を選んだよ。後はお前がこの中から選べ。取り合えず、候補者は5人に絞っておいた」
「……ありがとう、悪かったな」
翔は書類に視線を落とす。
「全く……お前はきっと将来地獄行き決定だな。勿論俺も。俺さ……お前を見ていたら結婚する気なんて失せてしまったよ。俺が一生独身になったら、お前のせいだからな、翔」
そして琢磨はニヤリと笑った――
****
琢磨が社長室を出て行った後、翔は5名の女性の履歴書に目を通し始めた。 「ふむ……女性の年齢は全員24歳か。でもそのくらいがちょうどいいかもな。爺さんが早く引退すれば、それだけ早く彼女達を解放してあげる事が出来る訳だし、年齢は若い方がいいか。後は出来るだけすれていない女がいいな……。幾ら偽装とは言え、仮にも俺の妻になるんだから……」他の男性が聞けば、ギョッとされそうなセリフを言いつつ、翔は真剣に履歴書に目を通し……1人の女性に目を付けた。
「うん。これは……?」
それは須藤朱莉の履歴書だった。
「24歳にしては随分地味な女だな……。しかも黒縁眼鏡なんて。経歴は……うん? 北小路学園……? 何だ、俺と同じ学園にいたのか。でも中退になってるな? 何か学園をやめないといけない理由でもあったのか? 今の勤務先は缶詰工場のパート従業員……? これまた絵になりそうなほど地味な仕事をしているなあ。家族構成は……ああ、父親がいないのか……」
気付けば翔は朱莉の履歴書を食い入るように見ていた。
これだけ地味な外見、地味な生活をしているのであれば、きっと男はいないだろう。それに男とまともに交際した事も無さそうだ。偽装結婚の相手ならその方がいい。何故なら簡単に言葉一つでコントロール出来そうだからだ。 明日香は美人だが、嫉妬深い。今回の翔の偽装結婚は当然彼女は承諾済みだ。 だから相手も明日香より見劣りする女でなければならない。「この女……借金でもしていないかな? だとしたらより一層コントロールしやすいのだが……。そうだ、琢磨に調べさせよう。色々な女と面接するのも面倒だし、取り合えずこの女にしておくか。興信所も利用して……何か脅迫するネタでもあるといいな……」
琢磨では無いが、まるで鬼の様な台詞を言いつつ、その後も翔は朱莉の履歴書に目を通し続けるのだった――
今日は【鳴海グループ総合商社】の面接の日だ。面接時間は10時からだが朱莉は気合を入れて朝の5時半に起床した。「面接でどんな事聞かれるか分からないからね……。ここの会社のHPでも見てみようかな?」朱莉はスマホをタップして【鳴海グループ総合商社】のHPを開いた。 HPに企業理念やグループ会社名、世界中にある拠点、取引先等様々な情報が載っている。これら全てを聞かれるはずは無いだろうが、生真面目な朱莉は重要そうな事柄を手帳に書き写していき、ある画面で手を止めた。 そこに掲載されているのは若き副社長の画像だったのだが……朱莉は名前と本人画像を見てアッと思った。「鳴海翔……鳴海先輩……」 思わず朱莉はその名前を口にしていた――**** 話は朱莉がまだ高校生、16歳だった8年前に遡る。その頃はまだ父親は健在で、朱莉も社長令嬢として何不自由なく生活をしていた。高校は中高一貫教育の名門校として有名で、大学も併設されていた。朱莉は当時吹奏楽部に所属しており、鳴海翔も吹奏楽部所属で2人とも同じ楽器「ホルン」を担当していた。上手に吹く事が出来なかった朱莉によく居残りで特訓に付き合ってくれた彼だった。 背が高く、日本人離れした堀の深い顔は女子学生達からも人気の的だったのだが、異母妹の明日香が常に目を光らせてい…た為、女子学生達の誰もが翔に近付く事を許されなかったのである。 ただ、そんな中…楽器の居残り特訓で翔と2人きりになれた事があるのが、朱莉だったのである。「先輩……私の事覚えているかな? ううん、きっと忘れているに決まってるよね。だって私は1年の2学期で高校辞めちゃったんだし……」結局朱莉は高校には半年も通う事は出来なかった。高校中退後は昼間はコンビニ、夜はファミレスでバイト生活三昧の暮らしをしてきたのである。「せめて……1年間だけでも高校通いたかったな……」急遽学校をやめざるを得なくなり、翔にお世話になった挨拶も出来ずに高校を去って行ったのがずっと心残りだったのである。朱莉の憧れの先輩であり、初恋の相手。「もしこの会社に入れたら……一目だけでも会いたいな……」朱莉はポツリと呟いた。 ****「では須藤朱莉様。こちらの応接室で少々お待ちください」秘書の九条琢磨はチラリと朱莉を見た。(あ~あ……。可哀そうに……この女性があいつの犠牲になってしま
「あ、あの……この契約書に書かれている子供が出来た場合と言うのは……?」朱莉は声を震わせた。「何だ、そんな事いちいち君に説明しなければならないのか? 決まっているだろう? 俺と彼女との間に子供が出来た場合だ。当然、俺と彼女との結婚は周囲から認めて貰えていない。そんな状態で子供が出来たらまずいだろう? その為にも偽装妻が必要なんだよ」面倒臭そうに答える翔。偽装妻……この言葉はさらに朱莉を傷つけた。初恋で忘れられずにいた男性からこのような言葉を投げつけられるなんて……。しかも相手は履歴書でどこの高校に通っていたか、名前すら知っているというのに。(鳴海先輩……私の事まるきり覚えていなかったんだ……)悲しくて鼻の奥がツンとなって思わず涙が出そうになるのを数字を数えて必死に耐える。(大丈夫……大丈夫……。私はもっと辛い経験をしてきたのだから)「あの……社長と恋人との間に子供が出来た場合、出産するまでは外部との連絡を絶つ事とあるのは……」「ああ、そんなのは決まっているだろう。君が妊娠した事にして貰う為さ」翔は面倒臭いと言わんばかりに髪をかき上げる。(そ、そんな……!)朱莉はその言葉に絶望した。「社……社長! いくら何でもそれは無理過ぎるのではありませんか!?」思わず朱莉は大きな声をあげてしまった。「別に無理な事は無いだろう? 君がその間親しい人達と会いさえしなければいいんだ。直接会わなければ連絡を取り合ったって構わない。勿論その際は妊娠していないことがばれないようしてくれ。それは君の為でもあるんだ」翔の言葉を朱莉は信じられない思いで聞いていた。(本当に……本当に私の為なんですか……?)今、目の前にいるこの人は自分を1人の人間として見てくれていない。本当の彼は……こんなにも冷たい人だったのだろうか?一方の翔はまるで自分を責めるような目つきの朱莉をうんざりする思いで見ていた。(何なんだよ……この女は。だから破格の金額を提示してやってるのに……。それとももっと金が欲しいのか? 全く強欲な女だ)翔が軽蔑しきった目で自分を見ているのが良く分かった。この人と偽装結婚をすれば、お金に困る事は無いだろう。母にだって最新の治療を受けさせてあげる事が出来るのだ。この生活も長くても6年と言っていた。6年我慢すれば、その間に母だって具合が良くなって退院
――翌朝 朱莉は暗い気分で布団から起き上がった。昨日は以前からお休みを貰う約束を勤め先の缶詰工場には伝えていたのだが、今朝は突然の休暇願に社長に電話越しに怒られてしまったのだ。結局母の体調が思わしくないので……と言うと、不承不承納得してくれたのだが……。「これで会社を辞めるって言ったら……どんな顔されるんだろう」溜息をつくと、着替えを済ませて洗濯をしながらトーストにミルク、サラダとシンプルな朝食を食べた。 洗濯物を干し終えて時計を見ると既に8時45分になろうとしている。「大変っ! 急がないと10時の約束に間に合わないかも!」朱莉は慌てて家を飛び出し、鳴海の会社に到着したのは9時50分だった。(よ、良かった……間に合った……)早速受付に行くと、朱莉と殆ど年齢が変わらない2人の女性が座っていた。「あの……須藤朱莉と申しますが……」そこから先は何と言おうと考えていると、受付の女性が笑顔を見せる。「はい、お話は伺っております。人材派遣会社の方ですね。今担当者をお呼びしますので少々お待ちください」受付嬢は電話を掛けた。(え? 人材派遣会社……? あ……ひょっとすると私の素性を知られるのを恐れて……?)受付嬢は電話を切ると朱莉に説明した。「5分程で担当の者が参りますので、あちらのソファでお掛けになってお待ち下さい」女性の示した先にはガラス張りのロビーの側にソファが並べられていた。朱莉は頭をさげると、ソファに座った。(素敵な会社だな……。大きくて、綺麗で……あの人たちのお給料はどれくらいなんだろう。きっと正社員で私よりもずっといいお給料貰っているんだろうな……)そう考えると、ますます自分が惨めに思えてきた。昨日の面接がまさか偽造結婚の相手を決める為の物だったとは。挙句に翔が朱莉に放った言葉。『そうでなければ……君のような人材に声をかけるはずはない』あの時の言葉が朱莉の中で蘇ってくる。そう、所詮このような大企業は朱莉のように学歴も無ければ、何の資格も持たない人間では所詮入社等出来るはずが無かったのだ。その時、昨日面接時に対応した時と同じ男性がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。「お待たせ致しました。須藤朱莉様。お話は社長の方から伺っております。では早速ご案内させいただきますね」「はい、よろしくお願いいたします」挨拶を交わすと琢磨
――その日の夜朱莉が質素な食事をしているとスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。手に取り、早速開いて文面を読む。「あ……」それは鳴海翔からのメッセージでは無く九条琢磨からだった。『今日はお疲れさまでした。婚姻届けが本日受理されましたのでただいまより須藤様の苗字が鳴海にかわりますので、どうぞよろしくお願いいたします。新しい印鑑は後程郵送させていただきます。引っ越し業者もこちらで手配いたしました。3日後に業者がそちらへ伺いますので荷造りの準備を始めておいて下さい。後、結婚指輪をお作りしますので指輪のサイズを教えていただけますか? よろしくお願いいたします』「ふう……」朱莉は溜息をついた。この人物は余程有能なのだろう。今日だけでこれ程の仕事をこなすのだから。恐らく一流大の高学歴に間違いは無い。「やっぱりこういう人が会社では必要とされるんだろうな……あれ? そう言えば……指輪のサイズって……? 困ったな……。指輪なんて一度もはめた事が無いからサイズが分からないし……そうだ、調べてみよう」スマホをタップして、指輪のサイズの測り方を検索してみた。「へえ~。細い紙とセロハンテープがいるのね」早速セロハンテープと付箋を用意し、測ってみたところ朱莉の指輪サイズは7号だった。「7号か……。覚えておこっと」早速スマホにメッセージを打ち込んだ。『こんばんは。本日は色々とお世話になりました。引っ越し業者の件、どうもありがとうございました。明日、ここのアパートの解約をしてきます。指輪のサイズですが、今計測したところ7号でした。どうぞよろしくお願いいたします』(明日は会社に結婚した事と、仕事をやめる事を伝えなくちゃ……)朱莉は貰ったマンションのパンフレットを見た。港区六本木にある高級住宅マンション……いや、恐らく億ション。現在朱莉が住んでいるのは葛飾区の地区30年の古い賃貸アパート。そして職場はここから徒歩20分の缶詰工場。とても通勤出来る距離では無い。それに、これからは毎月150万ずつ振り込まれるのだ。日々の買い物はセレブだけが持つ事の許される「ブラックカード」もう一月16万円のパートをする必要は何処にもない。だけど……。「私が辞めると……困るかなあ……?」朱莉は溜息をついた―― 翌朝――「おはようございます。昨日は突然仕事をお休みしてしまい、申し訳ご
「おい、琢磨。お前……何勝手に結婚指輪なんて頼んでるんだよ」翌朝、社長室に現れた琢磨に翔はいきなり乱暴に指輪のカタログを投げつけてきた。「おい! 翔! いきなり何するんだよ!」琢磨は咄嗟に手で受け取った。「それはこっちの台詞だ! 誰がいつ結婚指輪を用意しろって言った? どんなデザインがよろしいでしょうか? って、いきなり宝石店の店長がメールを入れてきた時には驚いたぞ! しかもその後、そこの社員が受付嬢に俺にこのカタログを渡してくださいと置いて行ったんだからな!?」その言葉を聞いて琢磨の表情は凍り付いてしまった。「な……何だって? 翔……お前、今何て言った?」「だから、何故結婚指輪が必要なんだよ? そんなものがあったら相手が勘違いするだろう? 本当に俺の妻になったんじゃないかって!」「勘違いも何も書類上はお前と須藤さんはもう夫婦だろうが! 結婚式も無しの婚姻届けだけ。一緒に暮らす事も無く、その上結婚指輪まで渡さないつもりだったのか!?」琢磨のあまりの激高ぶりに流石の翔も異変を感じ、声のトーンを落とた。「お、おい……落ち着けよ。俺は別に本当に指輪など必要無いと思ったからだ。大体、あの女を見ただろう? 化粧っ気も無く、アクセサリーの類も何もしていなかった。だから指輪なんか必要無いと思ったんだよ」宥めるように琢磨に言うが、逆に翔の言葉は琢磨の怒りを増幅させただけだった。「何!? お前は結婚指輪をただのアクセサリーのように考えているのか!? 結婚指輪の意味はな……永遠に途切れることのない愛情を意味してるんだよ! 確かにお前と須藤さんは6年間の書類上の夫婦だけになるだろうが、もう少し彼女を尊重してもいいんじゃないのか? 優しくしてやろうとかは思わないのかよ!」「それは……無理だな。俺が愛する女性は明日香ただ1人なんだから。それに無駄に優しくしてあの女が俺に本気になったらどうするんだ? 俺に過剰に愛情を要求し出したり、6年後絶対に別れたくないと言って裁判でも起こされたら? いや、そもそも祖父の引退の状況によっては6年も経たないうちに離婚する事になるかもしれないのに。だから、あの女に必要以上に接触しないのは……むしろ、俺なりの……愛情のつもりだ」「……詭弁だな。それは」琢磨は憐みの目で翔を見た。「何とでも言え。俺は結婚指輪をつけるつもりはない。あの
今日は朱莉が葛飾区のアパートから六本木の億ションに引っ越しをする日である。全ての梱包作業を終え、不動産業者の賃貸状況の査定も何とか敷金で賄えて、追加料金を取られる事も無かった。後はこれで引っ越し業者がやって来るのを待つだけ。今迄自分で使っていた家具や家電は全て処分してしまったので部屋に置かれている荷物は段ボール10箱ばかりにしか満たなかった。朱莉がこの部屋で使用していた家具、家電はどれも1人用の小さな物ばかりで、逆に持っていけば邪魔になるような物ばかりだったからである。「新しい家に着いたら家具を買いに行かなくちゃ」朱莉はぽつりと呟いた。 引っ越し期間があまりにも短すぎた為に結局朱莉はこれから引っ越す億ションの内覧すらしていなかった。なのでどんな家具を買えば良いのかも一切分からず、翔から預かったブラックカードはまだ一度も使った事が無い。がらんとした床に座りながら朱莉は3年間暮らしてきたアパートを改めて見渡した。初めてここに引っ越してきた時は、あまりに狭く、古い造りの部屋に気分が滅入ってしまったが、日当たりが良く、冬でも部屋干しにしていても洗濯物が乾く所が気に入っていた。「住んでいる時はすごく狭い部屋だと思っていたのに……こうしてみると広く見えるものなんだ……」その時、呼び鈴が鳴った。「はい」玄関を開けると引っ越し業者の人達がぞろぞろと現れたので朱莉は面食らってしまった。(ちょっと……一体何人でやってきたの!?)数えると7名もの人数で現れたので、朱莉はすっかり仰天してしまった。一方の引っ越し業者の方も朱莉の荷物の少なさに面食らっている。「あ……あの……引っ越しのお荷物は……?」一番の年長者の男性が朱莉に尋ねてきた。「あの……お恥ずかしい話ですが、段ボール箱……だけなんです……」朱莉は顔を赤くして俯いた。(ああ……恥ずかしい! こんな事なら九条さんに引っ越しの件で連絡を入れれば良かったかも……。でも九条さんも忙しい方だし、私が引っ越し業者に依頼するべきだったんだ……)「申し訳ございません。私からきちんとお話するべきでした」申し訳ない気持ちで一杯になった朱莉は何度も頭を下げるので、かえって引っ越し業者は恐縮する羽目になったのであった。その後、引っ越し業者のトラックを見送った朱莉はマンションの住所を頼に、電車に乗って新しく済む億シ
その夜――21時 朱莉は1人で、億ションの広々とした部屋でベッドの上に丸まって眠っていた。初めはまるで巨大スクリーンに映し出されたかのような夜景に目を見張り、暫く見惚れていたのだが、この億ションはあまりにも広すぎた。朱莉は空しさを感じてしまい、まだ寝るには早すぎる時間なのに、そうそうにベッドに入っていたのである。 朱莉の今使用しているベッドは外国製の大型ベッドで寝心地は最高だった。この家具は、やり手秘書の九条が家具・家電を買いそろえる時間が朱莉には無いと思い、気を利かせて事前に全て買い揃え、部屋にセッティングしてくれていたのである。家具はどれも素敵なデザインばかりで、家電もとても使い勝手が良い物ばかりであった。だがそのどれもが自分で選んだものでは無かったので、ますますここが自分の新居とは思えずにいたのだ。(九条さんは良かれと思って用意してくれていたんだろうけど、出来れば少しくらいは自分で家具を見たかったな……。だけど私のような庶民が選んだ家具だといくら一緒に暮らさないとは言え、時々ここでお客様の接待があるならそれなりの家具じゃないと鳴海先輩に恥をかかせちゃうものね……) こうして1人で場違いなところにいると、何故だか無性に孤独を感じる。あの狭くて古かったけど、日当たりの良かった自分の賃貸アパートが懐かしい。あそこは全て朱莉が1人で選んだものばかりで、まさしく自分1人の城だったのだ。だけど、ここはまるきり自分の家とは思えない。6年経てば出て行かなければならない仮初の自分の住処。いや、状況によってはもっと早めにここを出て行く事になるかもしれない。その為に1年ごと結婚生活の更新と言う形になっているのだ。(今頃鳴海先輩は……この下の階の部屋で明日香さんと過ごしているのかな……?) 防音設備があまりにも整い過ぎているのか、物音ひとつ響いてこないだだっ広い部屋にベッドの中で身じろぎするシーツの音と、朱莉の溜息だけが聞こえるのみだった――****――同時刻 ここはとある高級ショットバー。九条は1人、カウンターでシェリートニックを飲んでいた。「悪い、遅くなったな」そこへ鳴海翔が現れた。「遅い、お前……どれだけ俺を待たせる気だ」仏頂面で九条は鳴海をジロリと睨み付けた。「仕方が無いだろう? 明日香の奴が中々解放してくれないものだから……」「チッ! の
――翌朝 ピンポーン 午前10時。朱莉が引っ越しの荷物の荷解きをしていると玄関からチャイムが鳴った「え……? 誰だろう? 私の所にお客さんなんて……」(鳴海先輩のはずは無いし……九条さんかな?)インターホンの使い方が朱莉には分からなかったので、急いで玄関に向かってドアを開けると、そこには長い髪を茶髪に染めた、スレンダーな美女が立っていた。清楚なワンピースに身を包んだ彼女は正にセレブの姿だ。「貴女ね……? 翔の書類だけの結婚相手は?」じろりと睨み付けるように朱莉を見るその姿は――(明日香先輩!)朱莉にはすぐに彼女の事が分かった。「ふ~ん……。私達の住んでる部屋と殆ど変わらないわね?」明日香は『私達』をわざと強調するかのように値踏みしながら辺りをキョロキョロと見渡すと上がり込んできた。「え~と……。須藤朱莉さん……だったかしら? いずれ貴女がお役御免になったら、この部屋に私と翔が一緒に暮らすのだから、あまり汚さないように気を付けて使ってちょうだいよね。この億ションは私達の持家だけど、下の億ションは賃貸なんだから」明日香は応接室に入るとソファに座る。「はい、分かりました。気を付けて使うようにしますね」朱莉は俯きながら返事をした。(そうか……先輩達は将来この家で夫婦として暮らすのね……)「全く……それにしても地味な女ね。でも辺に見栄えがする女じゃ無くてある意味良かったわ。勘違いして私の翔を誘惑する事も無さそうだしね」この家の主人のように腕組みをしてソファに座る明日香は正に女王様のようにも見えた。「そ、そんな……私は決して鳴海さんの事を誘惑しようとは考えてもいません」慌てて顔を上げて朱莉が言うと、明日香は何処か小馬鹿にしたかのように笑みを浮かべる。「あら、嫌だ。冗談で言ったのに……まさか本気にしちゃった訳? 大体貴女みたいな地味女を翔が見向きするはずないじゃないの」「はい、仰る通りです。明日香さんは本当にお綺麗ですから……」「あら、意外と素直に認めるのね。所でお茶の一杯も出ないのかしら? この家では?」明日香の言葉に朱莉は真っ赤になった。「す、すみません……。まだ引っ越しの荷解きが終わっていないのと……じ、実は給湯器の使い方が分からなくて……」「あら、嫌だ。貴女、そんな事も知らなくて引っ越しして来たの? それじゃ昨夜食事は
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう
食後――2人の前には今はアルコールだけが置かれている。朱莉のテーブルにはサングリア。琢磨の前にはマンハッタンが置かれいる。美しい夜景が見えるガラス窓にはその光景に見惚れている朱莉の姿が映っている。「朱莉さん」「はい、何でしょうか?」「すまなかった」振り向き、返事をする朱莉に琢磨は頭を下げた。「九条さん……」「沖縄から帰った後、黙って朱莉さんの前から消えて連絡も取れないようにしてしまったこと、本当に申し訳ないと思ってるんだ。ずっと謝りたかった。朱莉さんと会って話がしたいと思っていたんだ」「九条さんは、無責任に黙って姿を消すような人では無いと思っています。何か深い事情があったんですよね?」「そうだ。けど……いくら事情があったって、勝手にいなくなって本当に酷いことをしたと思っている。知り合いもいない沖縄に1人残して。本当のことを言えば……あのとき、一緒に東京へ朱莉さんを連れ帰りたかった」朱莉の目をじっと見つめる琢磨。「九条さん…」琢磨の突然の話に朱莉は息を飲んだ。(知らなかった……九条さんがそんな風に思っていてくれていたなんて……)「朱莉さんとのことで帰りの飛行機の中で翔と口論になって、社に帰ってからも険悪な状態で業務にも支障が出てしまったんだ。翔に言われたんだよ。お前はあまりにも私情を挟みすぎているって……」琢磨はそこでカクテルを煽るように飲むと、グラスを置いて続けた。「それで言われた。『もうお前とは一緒に仕事は出来ない、秘書をやめてくれ』って。だから俺は、それなら会社も辞めると言ったら、それなら二度と朱莉さんと連絡を取るなと言われたんだ。着信拒否にしろって命令されたしね」「そんなことがあったんですか?」「ああ。でも最後にやはり約束を破ってでも朱莉さんには連絡を入れるべきだった。だけど、それも後の祭りだ。俺が朱莉さんとの連絡に使用していたのは会社名義のスマホだったんだ。そこにしか朱莉さんの連絡先を入れていなかった。だから返却した後は連絡を取る手段が無かったんだ。我ながら抜けていたよ。まさか自分があの会社を辞めることになるとは一度も考えてもいなかったからね」自嘲気味に言う琢磨。「それで、以前からヘッドハントされていた会社に就職したんだ。好待遇で迎えると言われていたからね。でもまさかそのポストが社長だったとは思いもしなかった。一
琢磨と朱莉は50Fにある多国籍レストランに来ていた。美しい夜景が見えるように大きなガラス窓に対面した形でテーブルに座る。「すごい……こんなお店来るの初めてです」朱莉はホウッとため息をつきながら、窓から見える美しい夜景にすっかり目を奪われていた。琢磨はそんな朱莉の横顔を笑みを浮かべて見つめる。(良かった……朱莉さんが喜んでくれて……)久しぶりに会う朱莉は雰囲気も変わり、より一層美しくなっていた。(ひょっとして沖縄で何かあったのだろうか……?)朱莉のことをじっと見つめていると、突然朱莉が振り向いた。「九条さん、何だか雰囲気が変わりましたよね。以前より顔つきも精悍になったようですし」「ああ、そうかもね。入社してすぐに社長に就任したんだ。まだ27歳なのに。当然以前からいた社員達の中にはそのことを良く思わず、反発する人間も大勢いる。だから舐められないように身体を鍛えているからかもね」その言葉を聞き、琢磨がかなり苦労している様子が分かる。「身体を壊せば元も子もありませんからお休みの日はしっかり休んで下さいね?」朱莉は心配そうな表情で琢磨に声をかけた。「ありがとう、朱莉さん。でもそういう朱莉さんも何だか雰囲気が変わったね」「そうでしょうか?」「うん……何と言うか……その……以前よりも綺麗になった」朱莉に告げた後、琢磨は素直な自分の気持ちを伝えてしまったことに我ながら驚いてしまった。朱莉は琢磨の言葉に顔を赤くした。「き、綺麗になったなんて……そんな……」「ひょっとして沖縄で何かあった?」その時、丁度2人の前に料理が運ばれて来た。あらかじめ琢磨が指定していたセットメニューであった。次々と並べられていく料理に朱莉は目を見張った。あっと言う間にテーブルには様々な料理が揃った。フレンチからイタリアン、和風……他種多少な料理が美しく盛り付けられている。人の前にはシャンパンが置かれ、店員が下がると琢磨が尋ねた。「久しぶりの再会に乾杯しようか?」「そうですね」2人でグラスを持つと、互いにグラスを鳴らして琢磨はシャンパンを口にするのを見て朱莉もシャンパンを飲んだ。朱莉がグラスを置くのを見ながら琢磨は尋ねた。「朱莉さんは少しは飲めるようになったのかな?」「はい、そうですね。沖縄ではオリオンビールを良く飲んでいました」その言葉があまりに以外で琢磨